誕生から中学まで
岩崎彦彌太氏は、1895(M28)年9月15日に、東京駒込の岩崎久彌邸(現在の六義園)で生まれました。父久彌、母寧子の長男、三菱創始者である彌太郎の孫にあたります。翌年(1896)、湯島の久彌新邸完成後、駒込から転居し、以後彦彌太氏は幼少時をこの湯島本邸で過ごしました。
当時、岩崎家では生活面において江戸時代の大名の暮らし方を手本としており、彦彌太氏は、乳母をはじめとする養育係により育てられました。湯島本邸の西端に母の居室から六室間を置いて長男用の居住部分が突き出していますが、小学校に上がるまではそこで育てられました。小学校入学時からは、本邸隣の育雛館(いくすうかん)で起居するようになります。育雛館は厳しい学塾であり、その生活は質素を極め、日曜日と夏冬の休暇に本邸に帰り、午餐を行う生活でした。
その後東京高等師範中学校(現:筑波大学附属中学)に進学。この時期には、家庭教師の東京帝国大学大学院生、寺澤寛一氏(後の理学博士、日本学士院会員)より厳しい教育を受けました。次男降彌氏、三男恒彌氏も同様に教育を受けました。育雛館のある龍岡町から大塚までは小遣いも少なかったので毎日徒歩で5年間通学しました。
テニスプレーヤー
1913(T2)年、旧制学習院高校に進学。高校時代にはすでにテニス(軟式)プレーヤーとして活躍したものと思われます(早稲田との対抗戦記録に岩崎の名前がある)。1917(T6)年に東京帝国大学文学部社会学科(現:東京大学)に進学し、庭球部(軟式)のNo.1として活躍。大学在学中の大正7年頃、まだ少年であった青木岩雄氏(HI盃にて3回優勝)にテニスの手解きをしたことを、追悼文集「青木岩雄君」に自ら書き残しています。
1920(T9)年に帝大を卒業し大学院に進学しましたが、この時に母寧子氏が詠んだ慈愛の歌があります。
「おもひ子が月の桂を折りえたり文の林の奥をきはめて」
この頃に硬式テニスに転向したと思われますが、1922(T11)年9月には、第4回毎日トーナメントのダブルスで優勝するほどの腕前でした。翌月、ロンドン大学に留学するため渡英。この時、ロンドンでカップを購入し、三菱庭球同好会に寄贈しました。これを受けて1923(T12)年7月に第1回HI盃が開催され、連綿と続いて今日に至っています。
三菱本社に入社
1926(T15)年、彦彌太氏は留学を終えて帰国し、三菱本社に入社。以降、社会人テニスでは数々の大会で活躍しました。1934(S9)年に三菱本社の副社長に就任しました。戦後、1945(S20)年11月、財閥解体指令により副社長を辞任。1946(S21)年、三菱本社は解散となりました。
彦彌太氏は、ビジネスの第一線から退かれた後、テニス、乗馬、金魚等の多彩な趣味に興じられました。中でもテニスは一番の楽しみとされ、1952(S27)年のHI盃復活第1回大会から1967(S42)年に72歳でご逝去される前年の第15回大会まで、一度も欠かすことなく観戦されました。
主な戦績
年 | 戦績(パートナー) | スコア等 |
1922(T11) | 第4回東日トーナメントOB庭球戦硬式の部で複優勝(桑原芳夫) | 決勝:6-4、6-4、6-1 神戸・萩原(注)東日トーナメントは現在の毎日トーナメント |
1925(T14) | 清水・原田・福田からなる日本デ杯チームとともに米国を転戦 | ロンドン留学時、デ杯チームをサポート |
1926(T15) | 全日本選手権複出場(青木岩雄) | 1回戦:3-6、1-6、3₋6 横田、藤生(明大) |
1927(S2) | 関東選手権複でベスト8(青木岩雄) | 準々決勝:0-6、6-3、2-6、6-3、2-6 川上・木岡(明大) |
東日トーナメント複でベスト8(河尻慎) | 原田(世界ランク7位)・伊藤(1933年のデ杯選手)にセット2-3で惜敗 | |
1926(T15) ~1929(S4) |
HI盃東西対抗戦に出場 ・1926 単No.1 勝 ・1927 複No.1 負(河尻慎) ・1928 複No.1 負(河尻慎) ・1929 複No.1 勝(石井小一郎) |
6-2、1-6、6-1 大藪 11-9、4-6、6-8 大藪・関沢 4-6、7-9 関沢・福原 8-6、6-2 関沢・奥野 |
1927(S2) ~1930(S5) |
東京ローンテニスクラブ選手権複で4回優勝(青木岩雄) | 2年秋、3年秋、4年春、5年春の4回清水善三、神山與三郎組と大接戦したこともあり |
1930(S5) | ロンドンクィーンズクラブ室内選手権複でベスト4(青木岩雄) | 英国デ杯選手のオースチン・オリフ組に惜敗 |
1952(S27) | 復活第1回HI盃の100歳トーナメント優勝(山岸成一) | 決勝:7-5 富田・河尻 |